巻次
第四帖
983頁
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なわずときこえたり。これにつけても、阿弥陀如来こそ、ひとり無上殊勝の願をおこして、悪逆の凡夫、五障の女質をば、われたすくべきという大願をばおこしたまいけり。ありがたしというも、なおおろかなり。これによりて、むかし、釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典をとかれしとき、提婆・阿闍世の、逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがわしめたまいしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して、王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。このゆえに法華と念仏と同時の教といえることは、このいわれなり。これすなわち末代の五逆・女人に、安養の往生をねがわしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の、五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまえりとしるべし。あなかしこ、あなかしこ。

文明九歳九月二十七日、之を記す。

(四) 夫れ、秋もさり春もさりて、年月をおくること、昨日もすぎ今日もすぐ。いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえず、しらざりき。しかるにそのうちには、さりとも、あるいは花鳥風月のあそびにもまじわりつらん、また、歓楽苦痛の悲喜にもあいはんべりつらんなれども、いまにそれともおもいいだすこととては、ひとつもなし。ただいたずらにあかし、いたずらにくらして、老のしらがとなりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。されども今日までは無常のはげしきかぜにもさそ